はじめまして、ワールズ・エンド

友達のいないオタクが無味乾燥な日常を綴るよ。

みやまぎについて②(中学校編)

中学校入学

 中学校に進学した。初めて制服に袖を通した時は、なんだか大人になったような気分がしたけれど、皆一様に着せられたそれはとても窮屈で、あまり好きではなかった。

 部活動は、オリエンテーションで唯一、部員ではなく顧問の先生が紹介していた、全くと言っていいほど人気のない部活に入った。最初は私ともう一人の一年生だけだったが、先輩がいないのは気が楽だった。

 

 地区内でも指折りの、荒れた中学だった。一時期テレビでよく見かけた、学級崩壊を再現したVTR、まさにあれそのものだった。なめられている先生の授業では、教室を歩き回る生徒、携帯ゲームで対戦をする生徒、内職をする生徒。ほとんどが、先生の言葉に耳を傾けていなかった。そんな中でも私は、比較的まともに授業を受けていたと思う。

 中学生になっても、特に頑張らずとも勉強はできたし、三年間を振り返ってみても、成績はいつも5段階評価のオール5だった。

 とにかく内申点を上げて、楽に高校に入りたかったのだ。勉強はできたが、宿題も予習も復習も、家で勉強をするのが嫌いだった。成績のいい子たちは、塾や家庭教師を付けていたけれど、私は授業とテスト前の一夜漬けだけだったから、授業がどんなに酷い状況でも、最低限はノートを取った。つまらない時は、落書きをしたりもしていたけれど。

 

 定期テストは大体いつも一番で、それなりに優等生をしていたから、学級委員や生徒会に入ってほしいと先生に頼まれることもあった。反面、不真面目な生徒たちには、ものすごく嫌われていた。掃除を真面目にしろとしつこく注意したら、殴られたこともあった。面と向かって死ねとも言われた。表に出すことはないが、当時情緒不安定だった自分は、ペンケースからカッターを取り出して、これで殺してみろと挑発した。相手はかなり引いていたように思う。今思い返してもかなりやばい子どもだった。

 

 でも、悪ふざけも大好きだったから、授業中、周りに混ざって、ちぎった消しゴムを黒板に投げたりもした。一度先生にバレて注意されたこともあった。そんなことを繰り返していたら、いつしか、お前っていいやつだったんだな、と言われて打ち解けることができた。顔を殴ったやつにだ。人間、何が起こるかわからないものだなと思った。

 

 その間も、自殺願望は直らなかった。けれど行動を起こすのは怖かったから、いなくなれたらいいのに、と、漠然と思うくらいで済んでいた。クラスメイトが騒いでいる教室で、たった一人、泣いている夢を見たのを覚えている。現実なのではないかと思って、目覚めてもなお、恐ろしかった。

 表面上は何の悩みもない、明るくて頭が良くて、ノリもいい子を続けていた。内面はネガティブで、被害妄想が激しくて、不安で不安で仕方ないのに、誰にも悩みを言えない、誰のことも信じられない人間だった。

 

 確認強迫は中学になっても続いていたように思うが、実は、いつ治ったかははっきりしていない。今でも少し症状は残っているが、知らぬ間に治っていたのだ。後に受けたカウンセリングで、小中学生が自力で強迫性障害を治すことは、すごいことなのだと告げられた。どうすごいのかちゃんと聞かなかったものだから、今でもそれがピンと来ていないのだけれど。

 

 三年間、それとなく優等生を続けた結果、進学校に推薦で入学することが出来た。内申点は満点に近く、入試での作文と面接も上手くできたらしい。晴れて私は、受験勉強に打ち込むことなく進学先を決めることが出来たのだ。

 

 しかし、ここでもっとよく考えるべきだったのではと、今でも悩むことがある。二年後私は、その高校を辞めることになるから。

 

ネットの世界での出会い

 高校生活の話は置いておき、中学三年生の時、忘れられない出会いがあった。とある一人のブロガーとの出会いだ。

 

 我が家に初めてパソコンがやってきて、インターネットにつながるようになったのは、中学3年生の時だった。好奇心旺盛な私はすぐにネットの世界にのめり込み、なんとなく始めたブログに、熱中するようになった。

 

 ネットの世界は自由だった。心の中にくすぶっていたものを吐き出すこともできたし、同じ趣味を持つ人とつながることもできた。当時ブログで知り合った中には、今もTwitterでつながっている人もいる。

 学校から帰ると、毎日毎日記事を書いて、コメントを返して、みんなのブログを読んで、その時間はとてつもなく充実していた。

 

 そしてある時、一人の男性と出会った。外国人を自称していたが、そうとは思えないほど自然な日本語で文章をつづる、不思議な人だった。今でも、本当にあの人は存在していたのか不思議でならないけれど、私は彼が、大好きだった。彼の各記事はユーモアに溢れていたし、外国人ならではのネタも非常に面白く、すぐに彼のファンになったのだ。

 中学生の私と、三十手前を自称する彼とは、一回りほど離れていたというのに、毎日のように私の記事を読み、コメントを書いて、私が彼の記事にコメントをすれば、丁寧に返事をくれた。

 

 彼のファンになった理由は他にもある。当時私がハマっていた作品の、作者の知り合いだったらしいのだ。漫画家の知り合いにネタにされていると書かれた記事があり、確かにその通り、彼の話と作品の内容には類似点も見られた。

 ブログを通じて、いろんな人と交流をすることはもちろん楽しかったが、その中でも私は、彼とのやりとりを一番、楽しみにしていた。

 

 秋頃に知り合い、数か月が経って、私が長い春休みに入ると、一日に2度3度とコメントでやり取りをするようになった。時折、体調の悪い彼に代わって、彼の友人がブログを書くこともあった。友人の方々も、個性的で楽しい人たちばかりだった。

 

 けれど彼は、とても不安定だったのだ。うまく言葉にはしづらいのだが、存在が不安定、と表現するのが適切だろうか。

 

 高校に入学して、一週間が経ったある日、彼は一言だけを残して、ブログを辞めてしまった。本当に突然の出来事だった。顔も名前も知らない人だったけれど、彼がいなくなったことは、私にとってはとても、とても大きな出来事だった。

 

 今でも、当時のブログを削除することができないでいる。彼が残したコメントが、全て消えてしまうからだ。まだこの世界にいるのかどうかもわからないけれど、だからこそ、彼がいた痕跡を残しておきたかった。

 たった半年の出来事だったのに、十年近く経つ今でも、時折彼のことを思い出す。どこかで幸せにしていてくれたら、それでいい。そう、今でもずっと願っている。

みやまぎについて①(誕生から小学校編)

生い立ち

 恐らく建設業を務める父と、比較的大きな会社の地方営業所で事務員を務める母。それから、五歳上の兄。それが私の家族だった。

 父の職業が「恐らく」である理由は至ってシンプルで、彼は私が3歳の時に家を出て行ってしまったからだ。母親に追い出されたのかもしれないけれど、本当のことはわからない。

 当時の私は、悲しさや寂しさは一切を感じず、泣くこともなかった。どうしていなくなったのか、と不思議に思うことはあったけれど、母親にしつこく問うこともなかったように思う。それくらい、どうでもいいことだったのだろう。

 

 しかし、あれから20年程が経ち、幾度か思ったことはあった。日本という国(一応、この国だけに限定しておく)において、大多数の子どもは、この世に生を受けた瞬間に、無条件に愛してくれる人間を2人持っている。父親と母親だ。けれど、私はわずか三年でその片方を失ってしまった。

 もちろん、女手ひとつで幼い子どもを2人も育て上げた母親には感謝しているし、私自身、父親がいないことで困ったことなど、父の日に父親の似顔絵を描かされた時くらいだった。あの時は伯母さんの絵を描いてしのいだ。

 それに、いたく可愛がってもらったわけではないけれど、十分に愛されていたと思う。特別貧しいと感じたこともなく、人並みにしあわせだった。

 

 それでも、両親からの愛情を受けて育った子どもと、そうでない子どもでは、やはりなにかが違うのではないかと思うのだ。それが明確にこうである、とは言えないし、どちらがよりしあわせで、どちらがより不幸だと言い切ることもできない。

 ただ、これは私の場合に限ったことだが、とにかく人に迷惑をかけないように生きるようになった。当たり前のことじゃないか、と、思われるかもしれない。当たり前のことだと、私も思う。だからある時、これが普通でないと指摘された時は、本当に驚いた。

 

小学校入学

 今は友達がほとんどいない私だが、昔はそれなりにいたのだ。活発で、器用で、少しばかり手が早い子どもだった。好奇心も旺盛で、自分で髪を切って失敗したり、一人で工作をしている時に、工具用のはさみで指の皮膚を切り取ってしまったこともあった。

 とにかく何でも一人でできる子どもだった。それが生まれ持ったものなのか、人の、特に母親の手をわずらわせたくないという一心で身についたものなのかはわからない。

 

 小学校に入ると、その特性は勉強面で力を発揮した。通知表には「たいへんよくできました」が並んだ。勉強も体育も、音楽も図工も、本当に何でもよくできた。

 真面目な性格で、先生からも好かれていた。私も、先生という人種をとても信頼していた。手本にすべき大人だと、その時は信じていたから。

 

 悩みなど全くなく、遊んで、勉強して、毎日が楽しかった。多分。けれど、中学年、高学年と成長していき、6年生になった頃だろうか。毎日、死にたいと思うようになったのだ。家に帰る途中、ぼろぼろと涙を零すこともあった。

 いじめにあったわけではない。虐待されたわけでも、近しい人が亡くなるような、ショッキングな出来事があったわけでもなかった。

 これは数年後に知ったことだが、当時の私は、強迫性障害になっていたらしい。何度も何度も、必要以上に手を洗って、鍵を閉めたか不安になって家を出るのに何分もかかり、落とし物をしていないか、何もない道を一人で何往復も歩いた。外出するときは、確認する時間を含めて早めに出るようにしたけれど、それでも、待ち合わせの時間には大抵遅れてしまった。

 

 今となっては、もうはっきりとした原因はわからない。けれど、恐らくあれは、人間不信によるものだったと推測する。周りの人間を、全く信用できなくなってしまったのだ。

 

 それなりに友達はいた。休み時間に遊ぶ子も、授業でグループを作る時に一緒になる子も、放課後家で遊ぶ子も。けれど、私は誰かの一番の友達にはなれなかった。クラス替えをして、仲の良い子が出来ても、その子には私よりも仲の良い子がたくさんいた。別にそれはそれでよかったけれど、よくなかったのは、私がみんなより少しだけ、察しがよいというか、間が悪い子になってしまったことだった。

 

 遊ぼうと誘うと、用事があるからと断られた。次の日、その子が、「昨日は楽しかったね」と、他の子と話すのを見てしまった。

 3人で遊んでいて、1人が、もう1人の子の家に昨日忘れ物をしたから取りに行くと言い、2人と別れた。もう1人の子と昨日遊んでいたのは、私だった。

 

 その時、なんで嘘を吐くの? と指摘していたら、なにか変わっていたのかもしれない。しかし、嘘の理由を知ることが怖かった私は、なにも気づかないふりをし続けた。

 けれど、そうして少しずつ、自分は嫌われているのだと思うようになった。これ以外でも、日常の中の小さな嘘に気付いてしまうことが多々あった。もしかしたら、被害妄想もあったのかもしれない。

 そうして自分は、誰かの優先すべき人間にはなれないのだと思うようになった。その頃はもう、テストで満点を取っても、絵のコンクールでメダルをもらっても、慣れてしまったのか、母親も大して褒めてくれなくなってしまっていた。

 

 私は嘘が嫌いになった。いや、嘘を吐かれること自体は別に構わないのだ。簡単にばれてしまうような嘘を吐くことが問題なのだ。嘘を吐くなら、人を騙すなら、責任をもって最後まで貫き通して欲しかった。もしかすると、わざとばれるような嘘を吐いて、意図的に傷つけようとしていたのかもしれないけれど。

 

 

信頼の崩壊

 不安定に積み上げられた積み木が、一気に崩れた出来事があった。

 

 春先に、運動会の組み分けが発表された時だった。私の通っていた小学校は、クラス毎で組を分けられるのではなく、クラスの中で分割され、それを全校で合わせて複数の組を作る方法を取っていた。縦割りを、さらに細かくしたようなものだ。

 組み分けが発表された日の放課後、先生の周りに生徒たちが集まっていた。あそこの組は足が早い子ばかり集まっている、と、文句を言った子がいた。私は輪の外でそれを見ていた。すると先生が、こう言ったのだ。

 

「あの組には○○がいるでしょ?」

 

 ○○ちゃんは、体が小さく、足が遅い子だった。それは同じクラスであれば誰もが知っていた。知っていたけれど私は、酷くショックを受けた。手本にすべき立派な大人である先生が、特定の子を卑下するような発言をするなんて。

 そこで私は初めて、先生という人種が、素晴らしくよくできた人間ではないことを知った。一部の生徒が、先生の悪口を言ったり、依怙贔屓だ、差別だと言う理由も、そこで初めて理解できた。

 

 友達が吐いた嘘と、先生が言った悪口。この2つにより私は、人間を信用することが出来なくなってしまった。毎日が不安で不安で、仕方なくなった。けれど誰にも、母親にも言えなかった。心配を、迷惑をかけたくなかったから。