はじめまして、ワールズ・エンド

友達のいないオタクが無味乾燥な日常を綴るよ。

みやまぎについて①(誕生から小学校編)

生い立ち

 恐らく建設業を務める父と、比較的大きな会社の地方営業所で事務員を務める母。それから、五歳上の兄。それが私の家族だった。

 父の職業が「恐らく」である理由は至ってシンプルで、彼は私が3歳の時に家を出て行ってしまったからだ。母親に追い出されたのかもしれないけれど、本当のことはわからない。

 当時の私は、悲しさや寂しさは一切を感じず、泣くこともなかった。どうしていなくなったのか、と不思議に思うことはあったけれど、母親にしつこく問うこともなかったように思う。それくらい、どうでもいいことだったのだろう。

 

 しかし、あれから20年程が経ち、幾度か思ったことはあった。日本という国(一応、この国だけに限定しておく)において、大多数の子どもは、この世に生を受けた瞬間に、無条件に愛してくれる人間を2人持っている。父親と母親だ。けれど、私はわずか三年でその片方を失ってしまった。

 もちろん、女手ひとつで幼い子どもを2人も育て上げた母親には感謝しているし、私自身、父親がいないことで困ったことなど、父の日に父親の似顔絵を描かされた時くらいだった。あの時は伯母さんの絵を描いてしのいだ。

 それに、いたく可愛がってもらったわけではないけれど、十分に愛されていたと思う。特別貧しいと感じたこともなく、人並みにしあわせだった。

 

 それでも、両親からの愛情を受けて育った子どもと、そうでない子どもでは、やはりなにかが違うのではないかと思うのだ。それが明確にこうである、とは言えないし、どちらがよりしあわせで、どちらがより不幸だと言い切ることもできない。

 ただ、これは私の場合に限ったことだが、とにかく人に迷惑をかけないように生きるようになった。当たり前のことじゃないか、と、思われるかもしれない。当たり前のことだと、私も思う。だからある時、これが普通でないと指摘された時は、本当に驚いた。

 

小学校入学

 今は友達がほとんどいない私だが、昔はそれなりにいたのだ。活発で、器用で、少しばかり手が早い子どもだった。好奇心も旺盛で、自分で髪を切って失敗したり、一人で工作をしている時に、工具用のはさみで指の皮膚を切り取ってしまったこともあった。

 とにかく何でも一人でできる子どもだった。それが生まれ持ったものなのか、人の、特に母親の手をわずらわせたくないという一心で身についたものなのかはわからない。

 

 小学校に入ると、その特性は勉強面で力を発揮した。通知表には「たいへんよくできました」が並んだ。勉強も体育も、音楽も図工も、本当に何でもよくできた。

 真面目な性格で、先生からも好かれていた。私も、先生という人種をとても信頼していた。手本にすべき大人だと、その時は信じていたから。

 

 悩みなど全くなく、遊んで、勉強して、毎日が楽しかった。多分。けれど、中学年、高学年と成長していき、6年生になった頃だろうか。毎日、死にたいと思うようになったのだ。家に帰る途中、ぼろぼろと涙を零すこともあった。

 いじめにあったわけではない。虐待されたわけでも、近しい人が亡くなるような、ショッキングな出来事があったわけでもなかった。

 これは数年後に知ったことだが、当時の私は、強迫性障害になっていたらしい。何度も何度も、必要以上に手を洗って、鍵を閉めたか不安になって家を出るのに何分もかかり、落とし物をしていないか、何もない道を一人で何往復も歩いた。外出するときは、確認する時間を含めて早めに出るようにしたけれど、それでも、待ち合わせの時間には大抵遅れてしまった。

 

 今となっては、もうはっきりとした原因はわからない。けれど、恐らくあれは、人間不信によるものだったと推測する。周りの人間を、全く信用できなくなってしまったのだ。

 

 それなりに友達はいた。休み時間に遊ぶ子も、授業でグループを作る時に一緒になる子も、放課後家で遊ぶ子も。けれど、私は誰かの一番の友達にはなれなかった。クラス替えをして、仲の良い子が出来ても、その子には私よりも仲の良い子がたくさんいた。別にそれはそれでよかったけれど、よくなかったのは、私がみんなより少しだけ、察しがよいというか、間が悪い子になってしまったことだった。

 

 遊ぼうと誘うと、用事があるからと断られた。次の日、その子が、「昨日は楽しかったね」と、他の子と話すのを見てしまった。

 3人で遊んでいて、1人が、もう1人の子の家に昨日忘れ物をしたから取りに行くと言い、2人と別れた。もう1人の子と昨日遊んでいたのは、私だった。

 

 その時、なんで嘘を吐くの? と指摘していたら、なにか変わっていたのかもしれない。しかし、嘘の理由を知ることが怖かった私は、なにも気づかないふりをし続けた。

 けれど、そうして少しずつ、自分は嫌われているのだと思うようになった。これ以外でも、日常の中の小さな嘘に気付いてしまうことが多々あった。もしかしたら、被害妄想もあったのかもしれない。

 そうして自分は、誰かの優先すべき人間にはなれないのだと思うようになった。その頃はもう、テストで満点を取っても、絵のコンクールでメダルをもらっても、慣れてしまったのか、母親も大して褒めてくれなくなってしまっていた。

 

 私は嘘が嫌いになった。いや、嘘を吐かれること自体は別に構わないのだ。簡単にばれてしまうような嘘を吐くことが問題なのだ。嘘を吐くなら、人を騙すなら、責任をもって最後まで貫き通して欲しかった。もしかすると、わざとばれるような嘘を吐いて、意図的に傷つけようとしていたのかもしれないけれど。

 

 

信頼の崩壊

 不安定に積み上げられた積み木が、一気に崩れた出来事があった。

 

 春先に、運動会の組み分けが発表された時だった。私の通っていた小学校は、クラス毎で組を分けられるのではなく、クラスの中で分割され、それを全校で合わせて複数の組を作る方法を取っていた。縦割りを、さらに細かくしたようなものだ。

 組み分けが発表された日の放課後、先生の周りに生徒たちが集まっていた。あそこの組は足が早い子ばかり集まっている、と、文句を言った子がいた。私は輪の外でそれを見ていた。すると先生が、こう言ったのだ。

 

「あの組には○○がいるでしょ?」

 

 ○○ちゃんは、体が小さく、足が遅い子だった。それは同じクラスであれば誰もが知っていた。知っていたけれど私は、酷くショックを受けた。手本にすべき立派な大人である先生が、特定の子を卑下するような発言をするなんて。

 そこで私は初めて、先生という人種が、素晴らしくよくできた人間ではないことを知った。一部の生徒が、先生の悪口を言ったり、依怙贔屓だ、差別だと言う理由も、そこで初めて理解できた。

 

 友達が吐いた嘘と、先生が言った悪口。この2つにより私は、人間を信用することが出来なくなってしまった。毎日が不安で不安で、仕方なくなった。けれど誰にも、母親にも言えなかった。心配を、迷惑をかけたくなかったから。